南北朝時代から戦国期にかけて、能島村上氏が居城した代表的な海城の跡。周囲は潮流が渦巻く最大の難所であり、能島は天然の要塞とも言える城だった。岩礁には船をつなぐための柱穴が残る。
大島のほぼ中央部にある標高215mの八幡山。頂上からは、大三島や波止浜をはじめ、村上海賊が活躍した瀬戸内海一帯の島々を眺めることができる。八合目には巨大な天狗岩、山麓には弥生時代の遺跡や古墳もある。
来島海峡を押さえるため、中央と東側に築かれた能島村上氏の海城。海峡の西側は来島村上氏の来島城が分担して海峡を支配した。1585年、羽柴秀吉の四国平定によって明け渡された。 ※一般公開されていませんので、遠景でご見学ください。
能島村上氏の陸地部の拠点集落だったと推定され、「鍛冶屋」や「番匠給」など城下町を思わせる地名が残っている。周辺の寺には中世の宝篋印塔など、村上海賊時代の繁栄を物語る文化財がある。
村上海賊の英雄的な大将、村上武吉が着用したと伝わる猩々陣羽織や、中世の黒韋威胴丸など。能島村上氏に伝わる貴重な資料が、今治市の村上海賊ミュージアムに収蔵されている。
村上海賊が史料に登場する前、伊予大島に有力な勢力が存在していたことを示す友浦善福寺の宝篋印塔。周辺には、鎌倉時代中期の地蔵菩薩立像など、中世の文化財が多く残る。
南北朝時代に活躍した能島村上氏の伝説的武将、村上義弘の菩提寺とされる高龍寺。義弘の墓と伝えられる宝篋印塔は、寺の境内ではなく亀老山の中腹にある。